第二章 意識のテクノロジー 10
視える法則・視えない法則・視える不思議
「聖なる谷」では、どういう過程を通じて、目に見えないスピリチュアルな世界に足を踏み入れたかを旅行記を通じて書きました。
それは私にとってのスピリチュアルな世界への入り口であると同時に、多次元的な世界への入り口でもあったわけです。
幸いなことに、様々な霊的な体験をしたにも関わらず、私の意識はあまり浮き上がることはありませんでした。
不思議な体験をすれば、する程に、浮き上がるのとは逆に、地に足が着いてしまう感じでした。
その理由は、自分が体験していることが、あまりにも突飛過ぎて、良く理解できなかったからです。
霊的な経験そのものに自分が翻弄されるのが怖かったというのもあると思います。
ペルーから帰って来ても、不思議体験というのは終ること無く、現在でも続いています。
神秘のベールというのは、その不思議さを明らかにし続けても、次から次へと押し寄せてきます。
神秘には終わりがないわけです。
よくクライアントさんたちから聞かれるのですが、私は生まれつき能力が開いていたタイプの人ではありません。
感受性は普通の同年齢の子供達よりも豊かだったと思いますが、別に目に見えないものを視ていたわけでもなく、ずば抜けた霊能力があったわけでもありません。
そういう意味では、母方の従姉妹たちの方が霊的な経験はわたしなんかよりも遥かに多かったと思います。
従姉妹の家は、祖父の家の隣にあって、その家には幽霊が棲んでいたので、従姉妹達はしょっちゅうその幽霊を目撃していました。
何度も幽霊の話しを聞いていたので、怖いと思ってて、あまり従姉妹の家に居るのは好きではありませんでした。
従姉妹達の家には、白い花嫁衣装を着た幽霊が、夜になると部屋の中に現れていたのです。
私の場合は、二十歳の半ばにいきなりでしたから、その突拍子の無さに、考えることが多かったわけです。
それでも幽霊が目に見えるわけではなかったので、怖さは少なかったと思います。
怖いものを見たくないから見ないようにする人もいます。また逆に、怖いから逆に見てしまうというタイプの人もいます。
私の場合は、見てしまった時は、怖いも何も、目が…になってしまうのが普通なので、そこで思考が止まってしまうのです。
思考が停止してしまうので、目をパチクリさせて、明確に見てしまうのです。
そして大体の場合は、後になってから怖さが追いかけてきます。
分からないこととか、理解の範囲を超えている場合は、感情の動きが停止します。
お目眼が…になりながらも、考えずにというか、感情が動かない状態で見てしまうのです。
実際にそのような状況では、脳波が普通の状態ではなくなってしまい、意識が後ろに下がってしまうからです。
そして、頭の中では 〈どうして、こんなもの見てるんだろう・・・〉 と冷静に思っていたりします。
その時に一生懸命に考えても分からないことは、とりあえず情報が揃うまで執拗に考えないという癖をつけたのもあるかも知れません。
わたしは体験したことを分析して、色んな方向から考えてみて、様々な知識と照らし合わせながら、腑に落ちるまで考察し続けます。
すると手がかりが出てきて、それを更に進めて理解する努力をすると、何かしらの答えが出てくるわけです。
それを絶えず繰り返しているわけですが、このプロセスには終わりがないように思います。
それだけ神秘のベールというのは、まだまだ沢山あるということです。
仕事でも何でも、〈なぜできないのか?〉を自分に問うのを習慣とするように訓練されてきたのが功を奏していると思います。
デザインの現場でも、上には上がいるので、私よりもキャリアの長い先輩たち、そしてデザインや、レイアウトのセンスが良い人達は沢山いました。
それらの上手いデザイナー達に比べれば、そんなにずば抜けてセンスが良いとは思っていなかったので、色んな人の作ったものを見たりとか、資料を集めたり、分析してみたり、違いを比較してみたり、自分なりの努力をして、自分の技術の向上を目指していたわけです。
キャリアを経てくると、自分の下に社員がつくようになり、彼らに教えなければいけない立場になります。
デザインというのは、比較的に感覚を駆使する仕事なので、感覚の問題を分かりやすく教えるというのは、そんなに楽なものではありません。
そして、センスというのは〈センスだから〉という言葉一言で済ませられがちです。
しかし、実際の現場では、センスでは済まされないのが普通で、シッカリと理論を持っていないと、説得出来ない状況もたくさん出てくるわけです。
プロになると、センスを言葉で明確に説明することが要求されるということです。
そんな下地があるので、センスの部分を解析して分解し、そして再び構築するということには抵抗がないわけです。
スピリチュアルな分野でも、私はそんなにセミナーとかワークショップにも出ていないので、その殆どは、本を読んだりとか、色々と実践してみたりとかを繰り返してきました。
「光りの手」の中に書かれていることも、本を読みながら、自分で噛み砕き、実験的に自分でやってみたりしました。
わからないなら、わからないなりに、試行錯誤を繰り返せば、それなりの結果が出てくるわけです。
この行程を繰り返していると、最初は不明確でわかりにくく感じていたことも、数をこなせば少しずつでもわかるようになります。
世の中には、わかる人も、感じられる人も、視える人も、星の数ほどいます。
それらの能力は、先天的な人もいれば、後天的な人もいます。視える人がいるということは、そこには何かの法則があるわけです。
逆に、視えない人にも、何かの法則が働いています。
視えない法則、視える法則があるということです。
この法則を理解することが出来れば、誰でも視えるようになるわけです。
感じられない図式が分かると、感じられるように導くことができるようになります。
そんな中で、セッションを通じて多くの方に、色んなことを聞かれるようになって言ったので、教えるという方向性が出てきました。
そして実際に教えてゆくとさらなる疑問が湧いてきて、それを紐解くために別の角度から、その不思議を分解しなければならないわけです。
本当に終わりがありません。
私がなぜ〈視える〉〈視えない〉に興味があるのか?
それはオーラの構造や身体の構造、波動や周波数とかなどを客観的に視えるようになれば、様々な問題が解決出来ると信じているからです。
お化けが見たいとか、視えるから凄いという問題とは少し違います。
さらには、多次元機能を持つオーラの構図を明確に理解するためには、視えないよりも視えた方が楽なのです。
わたし達のエネルギー体の一般名称である〈オーラ〉の中には、様々な情報が隠れています。
〈オーラ〉のことが更に解明されれば、色んなことがわかると思うのです。
それは単純にスピリチュアルなことだけではなく、物理学や、科学、医学、薬学、人体学などの一般的にスピリチュアルとは無縁だと考えがちな世界の事柄です。
さらには芸術性とか創造性とか、感受性とかを豊かにするためにも使うことができます。
目で見て明確に分かってしまえば、明確に伝えることができるからです。
精神世界でいう〈メタ・フィジックス〉というのは〈物理を超えた〉という意味です。
〈メタ〉という言葉は、この数年で〈クォンタム〉という言葉に移行しています。〈クォンタム〉というのは〈量子=光子〉ということです。
クォンタムな世界が少しでもわかるようになると、今までは目に見えなかった世界が、一気に明るくなります。
私は高校の時の物理のクラスが大嫌いだったので、物理のことは避けたいと思っていました。
なので、ここで物理のクラスを展開するつもりは全くありません。物理の時間の、数式が駄目だったのです。
あれは最初が分からないと駄目なんだと思います。
数式を覚えてないのに、数式が解けるわけありません。
今でも数字は得意ではありません。
数字が左右反対になったりするし、自分の電話番号でさえ無意識的に数字が入れ替わって書いてしまったりすることが多々あります。
そんな番号を渡された人は、繋がらないので困ってしまいます。
更には、ケタが増えていくと、数字が動いて見えるので、余計に分からなくなります。しかし、アイデアとか、理論というのは別です。
〈クォンタム〉な世界の本を読んだり、調べたりしていると、驚く程に、見えない世界のことが、視えてきます。
不思議なように思うかもしれませんが、視える図式、法則の秘密は、光子物理学と同じ所にあるのです。